『新歌舞伎十八番 紅葉狩』に関して

今日も雨模様。今月は雨が続く。

『新歌舞伎十八番 紅葉狩』に関してちょっと私感。感想で真女形の踊りを求めてる人が多いなと思って、あれ?と。この演目はいわゆる真女形の踊りではないんだけどなぁ。勿論、真女形さんも踊っているけど元々は加役の役どころ。猿翁さんも殊更女形を意識しない踊り方だったし三津五郎さんの『娘道成寺』も女形の身体の使い方とは違う方向の踊りだった。今回の染五郎さんもまるく小さく踊る気なく大きく踊ってる。そういった踊り方もある。最近のほうが幅が狭い見方になってる気がするんですよね。でもこれって加役での踊りだけではなく女形の動きも固定化される危険も孕んでるんじゃないかな。

女形の踊りを求めた人に染五郎さんの踊りがまだこういう踊り方もあるという部分で説得力が足りないのかもしれないけど女形とはとか語られるとちょっとう〜んとかなる。猿翁さんがあの年齢で倒れられたこと、三津五郎さんが亡くなられたことは色々大きい…。勘三郎さんもどちらかというと加役側に近い踊りをしていたと思う。鏡獅子にしろ娘道成寺にしろ。後年は勘三郎さんは勘三郎さんの踊りというジャンルでは?と思うほど個性があったけど。溜めとか間合いの使い方が独特。六代目菊五郎を目指していたというけど、六代目がそんな感じだったんだろうか?富十郎さんも目指していたという。でも勘三郎さんと富十郎さんでは随分違う。年齢が違うから較べられないけど。富十郎さんの溜めは軽やか。勘三郎さんは濃厚。

女舞を加役として踊るというので先ほど大きく踊ると書いたけど何も身体を殺してないのではなく、溜めを深く長くとることでの緩急をハッキリつけると印象がハッキリして大きくみえるということ。留めの部分で絵にする。それが加役の踊りだと私は思っている。今まで見てきたものがそうだった。女形さんの踊りは溜めの部分を流れるように連続させていく。動きがまろやかで女らしさが印象につく。まるく小さくしなやかに。最終的にどこを切り取っても絵になるように、は同じでもタッチが違うと言えばいいかな。
勘三郎さんがそうであったように染五郎さんの女舞は溜めをかなりとる。勘三郎さんもそう。身体的条件が違うので印象がかなり違うのですが似ています。染五郎さんのほうは回数もこなせてないので勘三郎さんに比べたら舞踊としては拙いの前提ですけど。
そういえば、今のところですが中村兄弟は七くんは女形の踊りを目指しているはずで当たり前でしょうが、勘九郎くんのほうも女形に近い踊り方をしていますね。芝翫さんのほうに近いと言えばいいのかもしれない。ちなみに紅葉狩は新歌舞伎十八番ということで海老くんの名前も出しますが舞踊として拙くても更科姫のところの踊り方は私はあれで十分だし加役ならではの華やかさがあって良いと思っています。ただし、鬼女の見現しと後ジテはもっと考えて派ですが…。
だいたい『新歌舞伎十八番 紅葉狩』は九代目團十郎の舞踊なのになぜ真女形を求めるのだ〜と思ったので書いてみた。